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ようやく買いました的なもの |
買いました買いました買いましたよ。 DSを手に入れてからずっと欲しいと思っていたソフト。
収録作品は100作異常なんだとか。有名どころからちょっとマイナーなものまで幅広く扱ってる。 本を探すときは、漠然とたくさんの作品の中から選ぶ方法と、そのときの気分によって探す方法がある。 で、後者の機能でなぜか「放浪記」という大作を読むことになってしまいましたとさ。 読み終わったら感想書くかもねー
テーマ:(・∀・)ららーん - ジャンル:日記
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天は人に二物を与えずっていうけれど |
天は人に二物を与えずって言うけれど、自分には一物も与えられてない気がする。
・小説→中途半端 ・音楽→中途半端 ・勉強→苦手やがな ・読書→読むスピード遅すぎだろ、常識的に考えて ・絵,工作関連→( ^ω^)…… ・スポーツ→なにそれおいしいの? ・歌 →現在検証中だが…… ・容姿→( ^B)……
うん、まあどう見ても自虐ネタですね。 ていうか最近ブログの記事内容が以前に比べて乏しくなっているような気がするけど、これからもがんばっていきますよっと^^
テーマ:今日のつぶやき - ジャンル:日記
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二日酔い |
いやね、お酒はやっぱり飲み過ぎたらいかんねって思った。 昨日、とあるつきあいで飲み会へ行ったのだが、途中から記憶が途切れてしまった。 そして気が付いたら翌日、つまり今日の朝ちゃんと家のベッドの上で眠っていたのだ。 その間自分はどこにいて、なにをしていたのか全く憶えてない。 携帯も財布も紛失しているわけでなく、ただその飲み会の会場に帽子を忘れてしまっていたくらい。 しかし記憶がない間いったい自分は何をしていたのだろう。 何かとんでもないことをやらかしたのではないだろうかとものすごく心配になる。
明日学校で友人にあったら聞いてみようと思う。
まあ何が言いたかったかというと
お酒はほどほどにね
テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記
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海外文学の日本語翻訳について |
日本でも外国でも文学の歴史は決して浅くはない。 そして今日、海外の文学・小説は様々な形で日本語に翻訳されて、日本へと輸入されている。 その中には当然、歴史に名を残すような文豪の作品も多々含まれている。 過去の文豪の造った物語が容易に読める現代の日本。これはとても有難い(敢えて漢字にしました)ことで、国によっては海外からの文学はおろか、自国文学も満足に創造もできない国だってある。 海外の文学を読むのは外国の人々のものの考え方を知る有効な手段の一つ。日本の常識で考えて、「この小説に出てくる奴らの考えありえねー。駄作」とか考えずに、その国のものの考え方なのだと受け取ることが大事。
ところで、日本に輸入されるとなると、当然ながら日本に居る大多数の人間は輸入元の国の言葉なんて話せないし書けないし読めも出来ないのだから翻訳という作業が不可欠である。そして翻訳家の人たちは取り寄せられた海外書物を丁寧に日本語に訳していくのだが、翻訳は当然人の作業で行われるわけだから、翻訳者の考え方やセンスが露呈してしまうことが多い。 そんなわけだから、当然ながら翻訳によっては極論ではあるが本来駄作な評価しか持っていない本が名作になったり、逆に有名文豪の代表作といった名作が駄作に落ちぶてしまうようなことも少なくは無い。しかもどうも日本で翻訳されたものは後者の方が多いように思われてならない。
私の知る限り、物語の本質を損なわず、かつ自然な翻訳に成功している一番の文学は、ダニエル・キイス作「アルジャーノンに花束を」(小野 芙佐訳)である。 あらすじ等はググるなり、実際に呼んでみるなりで調べてもらうとする。あくまで今回の話題は「翻訳」についてだから。 主人公が実験によって急速に知能が上昇している様子をあらわすという、かなり難しい翻訳を迫られるような本だが、訳者の小野氏は見事にその様子を日本語に訳すことに成功している。 さらにどこの出版社とは言わないが、翻訳版にありがちなことである会話などが妙にガチガチで不自然なリズムを帯びることなく、日本人が読んでもほとんど自然な流れで読み進めることが出来るのだ。 児童書関連の小説はよく崩した調子で翻訳しているが、物語本来の文章的流れを壊してしまっているのではないかと思われる本がよくある。例えばナルニア国物語や指環物語がそうであるが。なぜか全書に渡って敬体とか。児童書とは言え、これはどうかと思ってしまうような翻訳もある。 児童書ファンタジーで私の知る限り一番残念な翻訳は、ハリー・ポッターシリーズを置いて他にないように思える。
ちょっと読書好きな人ならすぐこの本の翻訳がまずいかが分かると思う。もっとも、これは原作自体がアレなのであるが、スネイプ先生の口調は本来どうだとか、 ヴォルデモート卿がどうだとかはともかく、陳腐な擬音語やうざいとしか思いようのないデカ文字使用はいかがなものか。 一応、原作版にも目を通したことはあるが、そのような表現は一箇所としてなかったと思われる。小説の情景を表すのに、文字をでかくしたりの視覚効果(ラノベにあるような挿絵は別として)を使うのは反則というか、意味の無いこと。
もちろん翻訳作業というのは決して楽ではないことぐらい把握してはいるが、こういう流れを作ってはいかんと思われてならない。こういった翻訳は原作者に失礼だし、ともすれば読者を裏切ることにもなる。児童文学だからといういい訳は通用しない
テーマ:つぶやき - ジャンル:小説・文学
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本はゆっくり読みたいもの……だが |
小説だろうと随筆だろうと論説書だろうと、本というのはゆっくり読むべきなんだと思います。 最近あちこちで紹介されてる速読法、ほとんど共通しているものの一つに「飛ばし読み」というものがあります。 名前の通り、一冊の本をいちいち最初から最後まで読まずに、ある10ページ単位で飛ばしながら読むというもの。 よくこの読み方のほうが内容がよく理解でき、また当然読むスピードも速くなって一石二鳥、この情報化社会ではいかに早く情報を飲み込むかが重要と謳われております。
しかしこの読み方、はっきり言っておすすめしません。
ちょっと考えれば分かることです。小説だろうと絵本だろうと随筆だろうと論文だろうと、飛ばし読みして、その飛ばした部分に重要な事柄が書いてあったらどうしろというのでしょう? 「この本の一番言いたいことは何かを探すのではなく、自分が一番気になるところを探せ」ともよく言われていますが、私としては前者の方を全く考えずに読むような読み方は、作者の方に失礼だし、もしある本の話題が出てきて、その本の一番重要な部分について飛ばし読みをしようものなら、この人はいったいこの本の何を読んだのだろうと首を傾げてしまいます。 また、言うまでも無いのですが、飛ばし読みなんぞしようものなら話の筋が(少なくとも自分は)掴めなくなるし、随筆や論文などではまだいいのですが、小説というのは謂わば「ある一つの現実が文章化したもの」です。それを飛ばして読むということは「その小説の世界で共有すべき時間を放棄する」ということになります。 ゆっくり読んで始めて深く味わえることもあるでしょうし、また新たな発見もあるものです。 もちろん、早く読むのを求められることがあることもあるでしょう。しかし早く読まなければと思って、重要な事柄を見逃していたらそれは読んでないことに等しいことです。読む速度を上げるのは構わないと思います(実際私も読む速度を上げる訓練をしてますが、一向に成果があがりません(泣))が、飛ばし読みというのは謂わば最後の手段とする程度でかまわないと私は考えます。
テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌
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